元プロデューサーが語るMacworld Expo Tokyo開催秘話|Appleウォッチ|トピックス|Computerworld

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【特別寄稿】

元プロデューサーが語るMacworld Expo Tokyo開催秘話

Think different.――ジョブズ氏の“こだわり”が成功の原動力
(2011年10月12日)

Macユーザーの祭典「Macworld Expo Tokyo」が国内で最後に開催されたのは2002年3月。1990年代後半の低迷期を脱したアップルの躍進は、今も続いている。スティーブ・ジョブズ氏の訃報を受け、同イベントのプロデューサーを務めていた家原信雄氏が、「Macworld Expo Tokyo」の開催秘話を初めて明かしてくれた。

 

 「Macworld Expo Tokyo」は、1991年から2002年まで開催された。ご存じない方も多いと思うが、Macworld Expo Tokyoはアップルコンピュータ(現アップル)のプライベート・イベントではなく、IDGとフジサンケイグループとの共催イベントだったので、同社も出展者の1社という位置づけだった。

 もっとも、基調講演は米国AppleのCEO、もしくは同社日本法人の社長が務めることが“お決まり”となっていた。歴代の登壇者は、ジョン・スカリー(John Sculley)氏、ギルバート・アメリオ(Gilbert Amelio)氏といったなつかしい顔ぶれが並ぶ。

 IDGジャパンに在籍していたわたしがMacworld Expo Tokyoのプロデューサーを務めた1999年、AppleはPCの市場シェアで低迷していたこともあり、本イベントの集客面でも苦戦が予想されたため、大勝負に打って出ることを決意した。スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)氏を基調講演に招聘しようと思い立ったのだ。

 しかし、周囲の反応は意外だった。「面倒なことになるから、やめたほうがいい」――。不安を胸に抱えたまま、米国Appleと交渉を重ね、ようやくJobs氏の登壇が決定した。結局、同氏は1999年から2002年までの4回にわたり、Macworld Expo Tokyoの基調講演を務めてくれた。

 以下では、Macworld Expo TokyoとJobs氏にまつわるエピソードを紹介したい。今だから語れる秘話も含まれている。わたしだけの胸の内にしまっておきたかったが、Jobs氏の素顔を皆さんに知ってもらいたいと思い、公表することにした。

エピソード1

 1999年のMacworld Expo Tokyoの基調講演は、幕張メッセのコンベンション・ホールで開催する手はずだった。1,600人を収容する大ホールであり、かつてマイクロソフトのビル・ゲイツ(Bill Gates)氏やサン・マイクロシステムズのスコット・マクニーリ(Scott McNealy)氏が講演したこともある会場だ。

 だが、米国AppleからNGの連絡が来てしまった。Jobs氏の講演は5,000人以上を収容可能な会場で行うことと、搬入とリハーサルのために3日前から貸し切ることが条件とされたのだ。わたしはその時、心の中で「まさに“Think different”だな」とつぶやいたのを覚えている。

 結局、イベント・ホールを追加で手配し、その広大なスペースに、舞台、照明、それに6,000人分の客席を特設することになった。予算を大きくオーバーしたことは言うまでもない。

エピソード2

 Jobs氏の来日決定に喜んだのもつかの間、新たな問題が浮上した。「基調講演は行うが、今年は展示を行わない」とAppleの担当者が通告してきたのだ。

 業績不振のためイベント出展費用を抑えたいという思惑があったことと推測するが、イベント・ビジネスは出展費が売り上げの主要な源であるだけに、主催者としてこれは相当の痛手であった。ただでさえMacintoshのシェア低下に伴ってMac OS対応ソフトウェアや周辺機器の開発会社が出展を見送る傾向が出始めていただけに、本家Appleが出展しないとなると、それに拍車がかかってしまうおそれがあった。当然、同社の展示を楽しみにしていたファンに対しても申し訳が立たない。

展示会場は、Macファンで大混雑。展示ブースもクールだった

 その後、血のにじむような交渉を経て、何とかAppleに出展してもらうことができたのだが、「面倒なことになるから、やめたほうがいい」という周囲の助言の意味が身をもって理解できた出来事だった。

 また、こんな出来事もあった。本番1週間前になって、Appleブースが出展規定の「装飾物の高さは最大6メートルまで」という規定値を超え、天井から装飾をぶら下げたデザインのブースを設計していることが判明したのだ。そこで急きょ、すべての出展者に対して、「100小間以上の出展者には、装飾物の高さ制限をなくします」と案内することとなった。

 このように紆余曲折があった1999年のMacworld Expo Tokyoだが、展示会場の中央に陣取ったアップルの巨大ブースに大勢の来場者が群がっているのを見て、思わず涙がこみ上げてきたのを覚えている。

エピソード3

Jobs氏の基調講演は、毎年、開場前から大行列ができていた

 当時、イベント業界では、幕張メッセでイベントを開催する場合、基調講演は午後から行うことが常識となっていた。その理由は、都心から電車で30分ほどかかるという同会場の立地にあった。しかし、Appleの要望により、Jobs氏の基調講演は午前9時30分スタートとなってしまった。

 ただでさえ6,000名会場に規模を拡大したので、空席が目立つような状況になってしまうのではないかとヒヤヒヤしたが、Mac系メディアやユーザーズ・グループが告知に協力してくれたこともあり、オープン前から会場入口には大行列ができていた。

 そして、午前9時30分。それまで会場内のBGMとして流れていたベンチャーズの「サーフィンUSA '78」が止まり、Jobs氏がステージ上に姿を現した。すると、6,000人の観衆がスタンディング・オベーションで出迎えた。このとき、感動のあまり、全身に鳥肌が立ったのを覚えている。

Macworld Expo Tokyo 2002で基調講演を行うSteve Jobs氏。同氏の講演が見れなくなるのは残念

 Jobs氏の講演のすばらしさは言うまでもないが、演出も見事だった。同氏の基調講演の演出を手掛けたのは、なんとブルース・スプリングスティーンのコンサート・チームだったのである。舞台の装飾も照明も音楽も、これまでのITイベントにはないクールなものとなった。

 講演の締めくくりには、ジョン・レノンの「スタンド・バイ・ミー」が流された。舞台を去るJobs氏のうしろ姿を見ながら、これまでの苦労がすべて吹き飛び、同氏を招聘してほんとうに良かったという思いで胸がいっぱいになった。

 これほどまでに演出に凝り、観客を満足させようとするJobs氏のサービス精神と細部にまで至るこだわり(人によってはそれを“わがまま”と表現することもある)により、同氏の偉大さを大いに見せつけられた瞬間だった。

エピソード4

 Macworld Expo Tokyoは、2002年が最後の開催となる。この年は、会場が幕張メッセから東京ビッグサイトに変更となった。イベント業界の関係者ならご存じかもしれないが、当時の東京ビッグサイトは、ほかの展示会場に比べて各種規制が厳しいことで有名だった。そのため、Appleの要望を満たすには同会場では難しいのではないかと思われた。

 そんな中、またも想定外の出来事が起こった。会場の下見に訪れたアップル日本法人の担当者が、Jobs氏の控室として使用する部屋にタバコの臭いが残っているとしてクレームをつけたのだ(Jobs氏は嫌煙家である)。また、Macworld Expo Tokyoの前週に東京ビッグサイトで開催されるイベントでもその部屋を禁煙にすることと、壁紙を張り替えることを要望したのである。

 結局、前週のイベントではその部屋は禁煙としてもらった。また、壁紙の張り替えは受け入れてもらえなかったが、応接セットを新品に交換してもらうことで決着がついた。そんな現場の苦労があったわけだが、本番当日、Jobs氏がその控室に足を踏み入れることはなかった。

 このように、米国Apple、同社日本法人、ユーザーズ・グループ、Mac Fan編集部、イベント会場、それにイベント運営の協力会社などが、Macworld Expo Tokyoの成功のために互いに協力し、時には意見を戦わせてきた。Macworld Expo Tokyoがなくなってまもなく10年が経過するが、当時の苦労は今となってはいずれもなつかしい思い出となっている。
 Jobs氏のすばらしい講演を二度と見ることができないのは残念だが、わずかながら同氏との時間を共有できたことは、わたしにとって貴重な財産となっている。わたしがもっとも好きなことばは、今も「Think different.」である。

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